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破格構文 序文
建築家の両親を持つ私の感性は、パスカル・コンヴェールの仕事やクリスティアン・ドートルモン、アレハンドラ・ピザルニック、マルセル・ブローダース、ニコラ・ブーヴィエ、ジュネあるいはアンリ・ミショーの詩と通じるものがあるのかもしれない。俯瞰図上の地面の高低差を結ぶ線、架空の言葉。 ミッシェル・ヴェルジュやフェリーチェ・バリーニの造形的な介入。あるいはまたダニエル・ビュレンの帯やシーケンス、ハッチングの線、縞、ストライプ、描線かもしれない。それらが強調しているもの、そしてまた85年から86年までのパリのパレロワイヤルの柱の工事の時にそこに現れる落書き故に。 しかし私にとっては線は書(エクリチュール)だ。 私は書く。しかし小説を警戒する。社会の中でいかにも賢く、礼儀正しい人が突然カメラを出し「全体の」写真を取ろうとするのを警戒するのと同じように。余分なものをそぎ落とした、簡潔な文章を、すべてではないが、私は好む。 本を読む時、途中で読むのをやめてしまうことが定期的にある。続けなければならないと思うと困惑してしまう、かと思うともう読み終えてしまった、理解してしまったとも感じる。 現代社会では映像との関係とは逆に、今や人と書との関係はますます下品になってきている。婉曲表現は文書保存によって増幅され、アタランテがメレアグロスに「恥知らずの媚」を売っているパラシオスの絵がティベリウスの寝床を見下ろしているような驚きは全く無い退廃した出版物。 何にでも誰にでもかまわず強力な印象を与える。 今や本は、旅を形作っていた紙面やページ、メモの寄せ集めでさえ無い。書物はオブジェ、肖像、写真になってしまった。あるいはなりつつある。芝居の仮面になりつつある。作家は益々自分の肖像写真を表紙に載せることを承知するようになった。映画のように。 足跡から平たんな画にずるずると移行してきているように思える。縦横線が入っていたものが、デジタル化する。
真実にとって駄弁を聾することは、欲望にとっての理性のようなもの。無駄話、にふけってしまってはならない。 ジュピターの寺院にいるアレクサンドルのように書かなければならない。剣でもってゴルディオスの結び目を切るように。 今、どう書けばよいのか? そう、私も時間をかけて女性の胸をコンピューターのキーボードの上に押し付け、その後スペルチェックにその結果を修正するように要請した。そして今、詩によってコンピューターの超テキスト性の非線状性、マインドマッピングあるいは増幅されたリアリティー(リアリティ増幅オーバーレイ)を扱うのも面白くないわけではないと私は言う。とは言え、「自分の愛読書の著者」2になることは愛読書の質を補償するものでは決してない。白状すれば仕事の現代性を中身の適格さより器の現代性によって判断する傾向にはわたしは慎重であらざるを得ない。 メディアや映画は「私たちの中に不確かな起源の雑多なるうごめく写真を、私たちをつかさどり、消耗させる映像と引用のごみ捨て場を」3蓄積させてゆく。そしてこの映像への要求は「私たちの身体損傷、渇き、悲嘆の証拠」4だ。 シュールレアリスム、ダダイズム、文字主義、イタリアやロシアの未来派の言葉の詩、そしてイジドル・イズーの情熱に燃えた散文の後、今や考える時かもしれない。言語の畑が休耕地となるのはさけられないのだろうか?
これは悪くない。そこに一つの芸術行為を見る。つまり印を。自粛か試みられた芸術。 数年前から私の仕事を私は「試み」と主張している。 シオランは「ぺ・キュミレ・ディスペラーリ」の中で「続ける有用性」について疑問を抱いているが、それでも彼の出版を妨げるには至らなかった。レルヌ出版の本の背表紙には「完全版」と記されている。1926年、バタイユは自分の最初の書物を破棄する。しかし黙ることが問題なのではない。 むしろどのように適切に口を閉じるかそれが問題だ。我々の時代の耳に優しいざわめきの中で黙ることが詩的に意味あるものになるならば、私はそう思うのだが、私の言葉を遮って欲しい。 どのようにやめることができるのか? まだ書いていない私のこの本の背表紙に「完全版」と書かれたくないことだけは確かだ。本の中で最悪の部分である表題、そして「完全版」、そんなものは私は全く知らない。 ギリシャ語で言えば、ゾーグラフィア (生き物の書)は映像に集中することで筋が黙ること、そして「黙りながら(シオポザン)」5話す、とシモニデスは付け加えている。 私は事実を書き留めようとする、生きたものを繰り返しや反すうすることなく書き取ろうとする。他の言語を私は学ぶ、そして話を中断する。 1/ (ヴィクトル・I・ストイキツァ) 2/ (ノベール・イレール) 3/ (ジャン・ピエール・クリキ) 4/ (アラン・クニ) 5/ (パスカル・キニャール) > Work list > Newsletter |